今も昭和の香りが色濃く残る壱弐参横丁。そこには60年あまりの時間が積み重なって、今に至っています。
壱弐参横丁の歴史は仙台空襲の復興から始まります。このコーナーでは横丁の人々、お客さん、仙台の街とともに歩んできた横丁の歴史を紐解いていきます。
時は昭和20年7月10日。仙台の街は1万1千発余の焼夷弾と8発の高性能爆弾による爆撃を受け、焦土と化しました。いわゆる「仙台空襲」です。仙台駅を降りると大学病院が見えるような状態だったといいます。
すっかり焼け野原になってしまった仙台の街なかで、人々は道端に戸板やござを敷いて物を並べて売っていました。ある人は蔵に眠っていた瀬戸物を、またある人は在庫があった下駄を。仙台駅前や一番町などにはそのような露店がたくさんあり、買物をする人々で賑わっていました。
やがて、そのような露天商に声をかけて市場を作ろうという人々が出てきました。昭和21年3月に市場の話が持ち上がり、昭和21年8月には「中央公設市場」が誕生しました。現在の壱弐参横丁の前身です。
当時、中央公設市場の設立に当たっては戦前の借地権者、戦地からの引揚者、空襲で焼け出された人々が優先的に入居していました。つい先日まで一般の人は口も聞けないほど偉い軍人さんが1日に何度も塩釜まで魚の仕入れに出て、中央公設市場で魚を売っていたというエピソードもあります。
当時、人々が戦地や疎開先から戻ってきたり、大都市から再疎開してきたりしたこともあり、仙台市の人口は急激に増加していました。中央公設市場の周辺には松竹映画館や文化キネマといった映画館が立地しており、また、市場奥の空地には舞台があってさまざまな興行がありました。日常の買物から娯楽まで揃っている場所として、多くの人々で賑わっていました。人が集まれば商品も飛ぶように売れ、どの店も朝から夜中まで商いに精を出していました。毎日毎日生活必需品を買い求める人で市場は混雑し、中には人波で店が壊れるのではないかと冷や冷やしていた店の人もいたそうです。戦後の混乱期、仙台で最初に復興したのが中央公設市場でした。
中央公設市場が誕生した頃、一番町通りと南光院丁通りを結ぶ2本の通路に名前がついていました。
青葉通り側の通路を「青葉小路」といい衣料品や雑貨など物販店の通りでした。南町通り側の通路は「松竹小路」といい、食料品店や飲食店が軒を連ねていました。
スタート当初は通りによって店の業種が区分けされていましたが、昭和30年代頃から店の入れ替わりによって区分けが崩れてきました。













